ずっと、ものづくりできる幸せ。たくさんのヒトとの出会いに感謝。

有限会社ウスイ製作所

代表取締役

碓井 浩太郎(うすい こうたろう)

北上市の住宅街から世界へ。

 北上市郊外の住宅街に佇む、一見普通の住宅のように見える建物……。ここが、さまざまな分野で使用される精密機械部品を24時間体制でつくり、世界的な自動車部品メーカーとも直接取り引きをする会社だと知るヒトは近所でもほとんどいません。

「ウスイ製作所」という名を冠するこの会社は社員13名の小さな町工場を営んでいますが、注目したいのは高精度な工作機械を使用し市場の多様なニーズに応えていく技術力の高さもさることながら、「小さな町工場だから今までのままでいいや」という甘えもなく、ヒトとしても、企業としても常に成長していこうと新しいことに果敢に挑戦している姿勢です。油まみれだった作業場を「3S(整理・整頓・清掃)活動」で一新させ、女性も積極的に採用し、働きやすい職場環境づくりを実践するなど、時代の変化やニーズに柔軟に対応しながら、現在も発展を遂げています。

そんな「ウスイ製作所」をずっとリードしているのが、同社の2代目社長・碓井浩太郎さんです。碓井さんは変化を恐れず、いいと思ったら新しいことにも貪欲に取り組み、「ウスイ製作所」を未来につないでいこうと行動しています。そのメンタリティーは、どのように育まれたのでしょうか。

「たくさんのヒトとの出会いがあって、自分自身が少しずつ変化しながら成長することができた。それがあったから今があるし、次は何をしようかというワクワク感でいっぱいなんですよ」

そう言って笑みを浮かべる碓井さんですが、現在までの道のりは決して平たんではありませんでした。

写真のような丸い金属材料を切削加工して精密機械部品に仕上げるのが「ウスイ製作所」の仕事です。

「ウスイ製作所」がつくる部品は自動車、医療装置、半導体製造装置などの分野で活用されています。

“親父”が買ってくれたニッパが、つくる楽しさを広げる。

 「ウスイ製作所」がJR北上駅の近くで、実家の物置を改造して創業したのが1974(昭和49)年、碓井さんが6歳のときのこと。今でこそ北上市は大手企業の工場を誘致し発展を遂げていますが、当時は北上市への企業進出がはじまった頃で、「ウスイ製作所」は碓井さんのお父さんがひとりで立ち上げ、進出企業の部品加工を行っていました。

 お父さんの働く姿を見て育った碓井さんは、幼稚園のときから“もの”をつくることが大好きで、工作が大の得意。プラモデルも図面なしでつくれるほどでした。

「困ったときに手伝ってくれるのは、いつもおふくろだった。親父は何も言わなくて、でも爪切りでプラモデルの部品を切り取っていたらニッパを買ってくれた。それはよく覚えています」(碓井さん)

 「ウスイ製作所」が現在の場所に移ったのは、それから7年後の1981(昭和56)年のこと。自宅と工場が一体となった現在のスタイルの「ウスイ製作所」が、このとき誕生しました。その後、ものづくりが得意だった碓井さんは中学を卒業し、国立一関高等専門学校機械工学科(5年制)に進学します。

「景気というのは難しくて、いいときもあれば悪いときもある。親父の仕事を見ているとそれがよくわかったので、お金のかかる大学は最初から無理だと思っていた。だから、お金がそれほどかからない5年制の一関高専に入って得意なものづくりの勉強をしようと思ったんです」(碓井さん)

 中学生の頃は、「竹村健一の世相講談」といった経済番組も見ていたという碓井さんは、当時から一歩先を見つめていました。その眼差しは、一関高専卒業後の進路選びでも変わりません。

「自分は機械の図面を書いたり、加工したりするのが好きで、コンピュータ、当時はマイコンとか言ってたけど、身近にそういうものがなかったせいもあって、コンピュータを使うことが苦手だった。ちょうどCAD(コンピュータによる設計支援ツール)が出はじめた頃で、将来設計をやるならそういうものを使いこなせなきゃいけないと思って、CADが使える会社という条件で探したんですよ」(碓井さん)

 そうして選んだのが神奈川県にある大手電機機器メーカーの開発部門で、CADを使ってプリント基板の設計をする仕事でした。しかし、決められた枠組みのなかで動く大企業では仕事にやりがいが持てず、もっと実践的にCADの経験が積めそうな会社に転職しようかと悩んでいる矢先、転機が訪れます。

「親父から『仕事を手伝ってくれ』という連絡があった。仕事はどんどん来るんだけど人手不足で大変だと。もともと帰るつもりではいたけど、CADの勉強をもっとしたかったので、親父に黙って転職しようとしたらバレちゃって……」(碓井さん)

 「どうせ会社を辞めるなら戻ってこい」と言われ、碓井さんは北上に戻る決断をします。そのときが、時代の波に翻弄され、激しい浮き沈みを繰り返す町工場の世界への船出でもありました。 

「ウスイ製作所」では、東北で初めてといわれたシチズン製のCNC自動旋盤(シンコムF16)を1983年頃に導入。以来、シチズン製に強いこだわりを持ち、現在では同社製のCNC自動旋盤9台を揃えるまでになっています。

船出早々のピンチ、給料もやがてゼロに。それでも捨てなかった希望。

 碓井さんが戻ってきた当初、「ウスイ製作所」は土・日・祝日も24時間フル稼働で大手OA機器の部品(プリンターシャフト)を大量生産していました。

「金属材料が週に4トンも届くんですよ。それを毎日ひたすら工作機械で削っていた。しかも、トラックから材料をおろすのはもちろん、製品を積むのも運転手さんと自分が手作業でやるから腕なんかパンパン。でも、大量生産だから1回プログラムをつくって、それに合わせて工作機械をセットすれば、あとはもう自動で部品を生産してくれるので『意外に簡単な仕事』だと思ったんですよ。そのときは……」(碓井さん)

 このプリンターシャフトが実に売り上げの7割を占めていた「ウスイ製作所」に、時代の波は待ったなしに押し寄せてきます。1990年代に入ると人件費の高騰により日本の企業が相次いで生産拠点を東南アジアや中国などにシフト。これにより「ウスイ製作所」はわずか半年で売り上げの7割を失う事態に。

「しょうがないんですよ。『そうなるよ』と言われてたのに、なんの策も打てなかったんだから」(碓井さん)

 他人事のようにあっけらかんと語る碓井さんですが、町工場としては文字通り死活問題です。しかも、碓井さんが北上に戻ってくるにあたって会社は設備投資をしており、その後も増産計画は止まらず工場を増設。

 さらに、それらの借金を抱えたまま、新たに工作機械の設備投資に踏み切った矢先の出来事でした。土・日・祝日も24時間フル稼働だった工作機械は鳴りを潜め、その2年後には碓井さんの給料がゼロになり、社員も最終的に碓井さんを含め2名にまで減っても、しかし碓井さんは希望を失ってはいませんでした。

「続けていれば絶対に次が来ると思っていた。最初は『意外に簡単な仕事』って言いましたけど、仕事をやっていくうちに、これは『ややこしい仕事』だと思うようになった。お客さまのオーダーに応えて部品をつくろうとすると、既存のバイト(金属を削るための刃物)だけでは対応できない場合もある。

 そういうときに自分でバイトを改造したりしていろいろ工夫して金属を削る技術を極めていかないと、いろんなお客さまのオーダーには応えられない。そういうことは、よそのヒトよりも得意だっていう自信が自分にはあったんですよ」(碓井さん)

 「借金もあったから廃業もできないし」と言って笑い飛ばす碓井さんですが、陰でアルバイトもしながら工場の社員と家族の暮らしを支える日々が5年間続いたとき、ものづくりの神様はようやくチャンスを与えてくれました。

とまっていた工作機械とともに、碓井さんの“工夫”が動き出す。

 「よそではできない自動車部品があるんだけど、つくれない?」

 ある日、そんな相談が碓井さんのもとに舞い込んできました。

「どうせ工作機械もとまってるし、とりあえず挑戦してみようと思ってはじめたら、かなり難しくて……。固い金属だったので、バイト(金属を削る刃物)は折れるわ、仕上がりの寸法にもバラつきがでるわで大変だった。

 でも、バイトのカタチを改造したり、切削油(金属を削る際に摩擦の抑制と冷却のために使う油)の量を変えたり、少しずつ加工条件をかえたりしながらやったら可能性が見えてきた。最終的には2週間以上かかったけど、オーダー以上の部品ができたんですよ」(碓井さん)

 『よそではできない』とは“コスト・時間・品質”を含めてであり、言葉を変えれば“より安く・より早く・高精度”な部品を安定してつくりだすことでした。つまり「ウスイ製作所」は、単に難しい部品を完成させただけでなく、難しい部品を“より安く・より早く・高精度”で安定供給できる技術を含め、お客さまのオーダーに応えることができたのです。

 「ウスイ製作所」はこれを機会に相談先から高い信頼を得て、自動車部品の切削加工の分野に進出。この経験から得た技術やノウハウをさらに発展させ、現在では高精度な要求に応える高い技術力と“超短納期・低価格”をモットーに、少量多品種から量産にも対応できるように進化。手がける部品も、自動車部品をはじめ、医療装置部品、半導体製造装置部品などの分野へと裾野を広げていきます。

「ウスイ製作所には三大革命というのがあるんですよ。

 詳しくは言えませんが、まず1つはパソコンが普及しはじめた20年ぐらい前から、パソコンで加工プログラムをデータ管理していること。そうすることで、オーダーに素早く対応できるようにしている。

 2つめが、細くて長いものの加工も得意なこと。500mmとか1mとか2mとか、普通ではできない長いものも、誰も思いつかないような加工方法でつくることができる。

 3つめが、市販の工具を自分たちで改造して工夫していること。

 弊社の場合、大きな会社ではないので、簡単に設備投資はできない。今ある高精度な工作機械をフル活用して、その能力を最大限に発揮するために、市販の工具だって改造するし、切削油の種類や量も調整したりして、ひと工夫どころか、ふた工夫、み工夫して、お客さまのオーダーに応えている。

 例えば、うちには研磨機がないんですけど、研磨機がないなら切削加工の段階で研磨機レベルまでツルツルに仕上げればいい。お客さまからオーダーを受けた以上、進みはじめた船は戻れない。お客さまの元に届けるまで、今あるもので、とことん工夫してやるだけ。そういう考え方でやっています」(碓井さん)

 かつて売り上げの7割を占めた部品の量産の仕事がなくなったとき、「ウスイ製作所」は苦難の5年間を過ごしました。そのときでも、『工夫することが得意』な自分を信じて “アイデア”と“創造力”で乗り越えてきた碓井さん。その道をぶれることなく突き進み、他社さんからも「ウスイさんは独自進化を遂げている」と驚かれるほど独創的な工夫の仕方でものづくりに邁進してきました。

 しかし、そうやってひと工夫、ふた工夫、み工夫と知恵を絞ってお客さまのオーダーに応えてピンチを乗り越えても、時代の荒波は容赦なく何度も押し寄せてきます。2000年のITバブルの崩壊、2008年のリーマンショック……、苦悩の日々が続くなかで、碓井さんを支えてくれたのが、さまざまなヒトとの出会いでした。

「ウスイ製作所」では釣り竿のカーボンシャフトをつくる際に、カーボンシートを巻き付けるための芯金となる「マンドレル」を1999年に製作。最細部となる先端から根元の端まで、歪まずにテーパー(徐々に太くなる)加工を行う非常に高度な技術が要求されましたが、半年以上にわたる試行錯誤を重ね、Φ0.4〜Φ6.0、全長2mのテーパー加工に成功。その技術は、切削では難しいとされる小径長尺の加工を可能とし、現在では医療分野などさまざまな分野の部品の加工に活用されています。

いろんなヒトとの出会いから広がる可能性。

 2000年のITバブルの崩壊で経営者として苦悩の日々が続くなか、碓井さんはあえて積極的に外に飛び出していくようになります。各地で開催されるセミナー、勉強会、講習会……、参加できるものにはなんでも参加し、どこへでも行くようにしました。

「よその地域の経営者さんも苦労しているんじゃないか? どうやってこの苦境を乗り越えようとしているのか? そういうことが知りたかったし、いろんな方とお話することで自分自身でも学びたいと思った」(碓井さん)

 そうした地道な努力により2008年のリーマンショック、そして2011年の東日本大震災を経て、東京や大阪でがんばる経営者さんと出会える機会が増加。さらに中小町工場のモチベーション向上と国内外の製造業者同士の出会いの場として2012年からスタートした「全日本製造業コマ大戦」にも参戦することで、同業者との結びつきも深めていきました。

「いろんなヒトと出会って、一番の収穫は東京も大阪も、中小企業はどこもみんな同じように苦労しているとわかったこと。田舎だから、周りに会社がないから、ではなくて、北上を飛び出すと仲間が、同志がいっぱいいる。そのことに気づけたことがよかった。

 それに、自分は2代目だからまだ若いんだけど、外に飛び出せば3代目、4代目のたくさん経験を積んだ先輩経営者さんがたくさんいて、いろんなことを親切丁寧に教えてくれる。しかも、それで自分自身が少しずつ変化しながら成長できたし、間違いなくそこで学んだことが今の会社に活きている。本当に、そう実感しています」(碓井さん)

 しみじみとそう語る碓井さんが、「3S(整理・整頓・清掃)活動」や女性も積極的に採用し働きやすい会社をめざすようになったのも、大阪で出会った先輩経営者さんのアドバイスがきっかけでした。

「女性が活躍する社会」というフレーズはよく耳にしますが、とくにものづくりの現場ではなかなか進んでいない印象があります。しかし、碓井さんは4年以上も前から大阪の先輩経営者さんのアドバイスに耳を傾け、その方に頼み込んで北上にまで足を運んでもらい、スタッフを前に「3S」をやる意義について講義してもらい、女性も働きやすい環境づくりに向けて積極的に取り組んできました。

 現在、「ウスイ製作所」では5人の女性が活躍していますが、子どもの突然の病気や行事などでも気軽に休めるように配慮しながら、仕事にもやりがいを持って取り組めるようにと検品作業をはじめ、できる限り責任のある仕事を任せています。

 また、さらにスキルアップしたい場合も会社がバックアップ。ある女性スタッフの場合、本人の希望を尊重し、働きながら職業訓練校に通える環境をつくりました。

「弊社には、3つの理念があって『顧客満足』『会社の発展と存続』、そして3つめが『社員の幸福』です。働くスタッフひとりひとりが幸福になるためには、個人としても目的や夢に向かって努力し、日々成長していくことが大切です。会社としてもそういうスタッフを応援したいと思っています」(碓井さん)

 「ウスイ製作所」で働きながら職業訓練校に通っていた女性スタッフは、旋盤で3級の国家資格を取得。現在は2級の国家資格を取得しようと仕事にも意欲的に取り組んでいるといいます。

「全日本製造業コマ大戦」の様子。素材・重量・形の制限はなく、直径20mm以下、高さ60mm以下のコマをつくり、相手より長く回り続ければ勝ちとなり、土俵の外に出ても負け。2連勝した時点で試合終了。最終的に優勝者は、すべてのコマをもらえるというルールです。

北東北地区の予選会をはじめ、これまで北上市で4回開催されている「全日本製造業コマ大戦」。碓井さんはそのすべてで大会委員長を務め、会社としても参戦するなど、コマ大戦を盛り上げていこうと積極的に取り組んでいます。

碓井さんが所有するコマ・コレクション。優勝したときの戦利品です。

世界の多様なーズに応えるために。町工場の挑戦。

 碓井さんには、大手OA機器の部品を大量生産していたときに「そのうち生産拠点が海外にシフトするよ」というアドバイスを聞いても、「なんの策も打てなかった」ことで売り上げの7割を失った苦い記憶があります。その経験を忘れてはいませんでした。

 内容は逆ですが、2015年に「これからは海外の自動車部品メーカーと直接Web上で取り引きするようになるし、部品点数も増えていくよ」という情報をもらったときのことです。

「『やばいな! 今のままじゃダメだ』と思った。昔のように油まみれになって整理・整頓も気にしないで仕事するスタイルのままじゃダメだと。何か手を打たなきゃと思って、いろんな先輩経営者さんからアドバイスをもらって、どんどん働く環境を変えて、人材育成にもチカラを入れるようになったんです」(碓井さん)

 現在、「ウスイ製作所」では朝はスタッフ全員が参加する朝礼ではじまり、毎週火曜日にはスタッフ全員揃ってランチを食べる機会を設けてコミュニケーションを深め、ランチのあとには3S活動の改善会議も実施。環境の変化を感じ、昔を知る得意先の担当者さんも見違えるほど整理・整頓・清掃された環境で、スタッフが一体となってものづくりに集中できるようになっています。

 「3S(整理・整頓・清掃)活動」や朝礼なんて多くの企業がやっていて、当たり前のことだと思うかもしれません。しかし、碓井さんのお父さんがひとりで立ち上げ、10人に満たないスタッフと家族のように仕事をしてきた町工場で、規律を持ってそれを行うことは大改革でした。

「でも、それをやったから、間違いなく今がある。国内だけでなく海外のお客さまのニーズにも、注文数がWeb上でリアルタイムに変わる状況になっても、スムーズに対応できるようになった」(碓井さん)

 碓井さんの右腕であり、一関高専の同級生でもある菊池工場長は、当時の碓井さんが3Sに取り組む様子を見て、あることを感じていました。

「私がウスイ製作所に入社する前に、8年ぐらい土木系の仕事をやっていたときがあって、その頃のことを思い出しました。

 昔の職人さんて結構荒っぽかったりハチャメチャだったりするんだけど、次の日の仕事のことを考えて道具をきちんと揃えて置いていたり、その日の工程を踏まえて足場をならしたり、すべてにおいて段取りを整えてから仕事をしていた。

 しかもそれは言われたからやるんじゃなくて、自分たちから当たり前のようにやっていた。社長(碓井さん)がお願いして来ていただいた先輩経営者の方の話を聞きながら、社長がめざしていることってそういうことなんだろうなと思ったんですよ」(菊池工場長)

毎週火曜日はみんなで一緒にランチ。ご飯の後は1時間にわたって3S活動の改善会議を行っています。

「女性の仲間が多いので、お互いの事情もわかってサポートしあえるので働きやすい」と語る女性スタッフ。後ろにいるのが菊池工場長です。

女性もスキルアップできるように応援。写真の女性は旋盤の国家資格2級取得をめざして仕事に励んでいます。

ヒトも、会社も、さらなる成長をめざして。

 「“頼まれごと”は断ることもあるが、“誘われごと”は断らない」をモットーとする碓井さん。現在も北上高等職業訓練校や北上コンピュータ・アカデミー、北上商工会議所青年部などでの活動をはじめ、地域産業の活性化を図るK.N.F(北上ネットワークフォーラム)や、日本各地のものづくり企業と連携し地域経済や街の活性化に取り組む「モノヅクリンクネット」、さらには「全日本製造業コマ大戦」の取り組みと忙しく飛び回っていて、会社にいないことがさらに多くなっています。しかし、碓井さんはそれもスタッフが、ひいては会社が成長するチャンスととらえています。

「最近は自分だけでなく、工場長も外に出ることが多いんですけど、自分や工場長がいなければ、残されたスタッフが判断し、決断して仕事をすることになる。その経験が積み重なって、ひとりひとりの成長につながっていけばいいと思っています。

 一方で、外に出たヒトは、そこで得た知識や経験を会社にフィードバックしてみんなで共有できれば、それも成長につながる。そうやって常にみんなで成長していければ、それがスタッフひとりひとりの幸せにもつながっていくと思うんです。技術的なことはもちろんだけど、そういう部分も含めての人材育成をこれからは進めていきたい」(碓井さん)

 北上に戻ってわずか1年でバブルの崩壊を経験するなど、船出と同時に時代の波に翻弄され、激しい浮き沈みを繰り返す町工場の世界の厳しい現実に直面した碓井さん。今にして思えば、当時乗っていたのは頼りない小さな舟でした。しかし現在は同じ小舟でも、グイグイとみんなを引っ張っていくタグボートのようです。

「都会では見知らぬ他人が多すぎて人間関係が希薄だとよく言われますが、それに比べて北上は田舎町。ヒトとの関係性もより密接で、ここで生活していく以上は良くも悪くもその関係性が死ぬまで続くことになる。

 でも、良い関係性さえ築ければ、その関係は生涯まで続く財産となります。自分はこれからもずっと北上でものづくりをしていく。だからこれからもヒトとの出会いを大切にして、良い関係を築いて死ぬまで付き合うつもりで接していけば、とても幸福な人生になると思うんです。

 幸い、北上という街は自然にも恵まれています。 山や川があって、温泉やゴルフ場も近く、スキー場も北上駅から1時間圏内にある。食材は新鮮で他県に行くと改めて地元の食材の品質の良さを実感することも多い。

 そのうえ、北上は古来、宿場町としてにぎわっていた歴史もあって、よそ者をおもてなしする風潮もある。弊社にも、他県から工場見学を兼ねて仲間が自分に会いに来てくれることも多いんですが、そういう仲間たちにも北上を好きになってもらいたいと思うし、死ぬまで付き合うつもりでこれからも接していきたい」(碓井さん)

 いろんなヒトとの出会いに支えられ、刺激を受けて自らも成長し、チカラ強い推進力を手にした碓井さん率いる「ウスイ製作所」というタグボートは、これからも続く景気の荒波をものともせず、未来に向かってグイグイと突き進んでいくことでしょう。

碓井さんは2000年のITバブル崩壊を経て、インターネットが普及しはじめると、いち早く自社のWebサイトをつくり、情報発信に努めました。その後、東日本大震災を経て情報発信の大切さを改めて痛感。現在も会社のコンセプトを紹介した動画を作成しWebサイトで公開したり、SNSも活用するなど積極的に取り組んでいます。

◇碓井さんも参加する「いわて3Sサミット」の詳細はこちら!

(了)

有限会社ウスイ製作所   

岩手県北上市村崎野15-532-20

Tel/0197-66-2650

2018-10-25|
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