他の地域にはない、 北上市のルーツと出会える場所へ。 先人たちが育んできた誇りを未来へ。

北上市立博物館

館長     杉本 良(すぎもと りょう)

館長補佐 渋谷洋祐(しぶや ようすけ)

北上市のルーツ、アイデンティティを探す旅へ、出発!

 上の写真は、今年4月に開催された「みちのく三大桜名所」にも数えられる「北上展勝地さくらまつり」のひとコマ。中央の悠々と流れる川が、北上川。その左手には北上川に寄り添うように続くおよそ2kmの桜並木があり、遊覧船からの眺めも好評。

 この桜を楽しみに、例年40万人を超える花見客が全国各地から訪れます。が、今回の主役は人気の「桜並木」ではなく、その対岸。

 今からおよそ350年以上も前、17世紀中頃(江戸時代)から東北本線が開通する1890(明治23)年頃まで、およそ250年間、この地は黒沢尻河岸(くろさわじりかし)と呼ばれ、年貢米などの物資を船で江戸へ送るための中継港として栄えた時代がありました。

 当時、盛岡藩の船だけでおよそ90艘、それに八戸藩の船や商人の船を加えると、上記の写真の北上川の上に120艘を超える船が行き来していたそうです。写真に写っているのは1艘の遊覧船ですが、そのような船が120艘も……。その眺めは、さぞや壮観だったことでしょう。

 北上市立博物館の館長補佐を務める渋谷洋祐さんは今から15年ほど前、この地が港町として栄えていた時代を誇らしそうに語るお年寄りたちと出会った日の体験を、今も大切にしています。

「みなさん、当時で80歳前後の方々でしたが、『北上川というのは、昔はいろんなものを船で運ぶための中心地だったんだよ』と語る言葉のひとつひとつに、すごく熱い想いを感じました。

 『だからこそ、新しいものを取り入れる気風がある』というようなことをおっしゃる方々もいて、それがみなさんの誇りになっているということが、すごくよく伝わってくるんです。

 残念ながら、その方々はもうお亡くなりになりましたが、そうした方々の誇りとなっている歴史を深く掘り下げて伝えていくこと。そういう北上のルーツとなっているものを具体的なカタチに描き出して、今に伝えていくことこそが、私のやるべきことだとそのとき思ったんです」

 当時を振り返ってそう語る渋谷さんは、そのとき北上市立博物館の学芸員になったばかりでした。渋谷さんは、北上市にある日本で唯一の詩歌専門の文学館「日本現代詩歌文学館」の学芸員を経て、2004(平成16)年4月から北上市立博物館の学芸員に。

 そこで出会ったお年寄りたちの言葉が、現在の渋谷さんの活動の原点です。

黒沢尻河岸の跡地に立つ案内看板。「開港は正保(しょうほう)年間(一六四四〜一六四八)ごろ」と記されています。
1973(昭和48)年に誕生した北上市立博物館。お隣には、北上川流域の茅葺古民家など
歴史的建造物を移築・復元した野外博物館「みちのく民俗村」も。
江戸時代の北上の人々の暮らしを研究している渋谷さん。なかでも、北上川舟運と黒沢尻河岸に関しては深い思い入れが……。

年貢米を運ぶ北上川舟運の中継港に。黒沢尻河岸誕生の理由とは?

 北上市立博物館が誕生したのは、1973(昭和48)年のこと。当初は「北上川とその流域に生きた人々」をテーマに、地域の歴史や自然を通史的に紹介していましたが、2016(平成28)年にリニューアル。

 そのコンセプトは明快です。日本の歴史と並べて北上市を語るのではなく、北上市の歴史を語る上で他にはない特徴を持った6つのトピックスをフィーチャー。

 北上川の雄大な流れに寄り添い、そこで人々がどんな暮らしを営み、文化を創造し、どんなアイデンティティを育んできたのか……。そのルーツをわかりやすくたどれる博物館へと生まれ変わったのでした。

 ちなみに、6つのトピックスは以下の通り。

①縄文時代の人々の暮らしを映し出す「樺山・八天遺跡」(国史跡)

②奈良時代に花開いた蝦夷独自の文化が新鮮な「江釣子古墳群」(国史跡)

③平泉が栄える200年以上も前に存在した北東北最大の寺院「国見山廃寺(くにみさんはいじ)跡」(国史跡)

④鎌倉~戦国時代にこの地を治め、産業を興し、地域の発展の礎を築いた「和賀氏」

⑤江戸時代、南部(盛岡藩)と伊達(仙台藩)の藩境に生きる人々の暮らしを見つめる「南部領伊達領境塚」(国史跡)

⑥江戸時代から盛岡藩の年貢米を運ぶ中継港としてにぎわった「北上川舟運と黒沢尻河岸」

 渋谷さんが担当するのは、もちろん江戸時代における北上市の人々の暮らし。改めて大学院にも通い、黒沢尻河岸とその周辺で日々の生活を営んでいた人々の暮らしに注目し、研究を進めています。

 そもそも、なぜ北上市に黒沢尻河岸と呼ばれる港が誕生したのでしょうか? その答えは、北上川特有の地形にありました。

 江戸時代は、年貢米の輸送手段として全国各地の河川で舟運の利用が活発になります。全国第4位(約10.150km2)の流域面積を誇る北上川も、もちろん盛岡藩の年貢米を運ぶ物流の大動脈として発展します。しかし、問題が……。

 「北上川は北上市のあたりから浅瀬や岩礁が多くなるので、ここから上流へは大型船は進めません。そこで、上流の米を小型船で運んできて大型船に移し替える中継港が必要になった。北上市に黒沢尻河岸が誕生したのは、そういう理由からです」(渋谷さん)

黒沢尻河岸の辺りから北上川の上流を望む。奥に架かる橋を越えると、浅瀬や岩礁が。
北上川沿いを走るサイクリングロードには、この地域に伝わる昔話を紹介する看板も。
浅瀬や岩礁が多かった北上川は、大きな石を並べて橋をつくろうとした「七つ石」、
地蔵さまを担いでお尻を濡らさないように川を渡ろうとする「猿と地蔵」などの昔話の舞台にも。
昔話の案内看板の向こうに見える北上川。あちこちに岩礁の姿が……。

河岸、宿場町のにぎわい……。今の北上市につながる記憶を未来へ。

 かつて120艘を超える船が、黒沢尻河岸を行き来していた話は最初に触れました。渋谷さんは、そのスケールの大きさを具体的な数字で説明してくれます。

「年貢米を輸送する船は2種類あって、350俵の米俵が積める大型船は、船頭さんを含めて乗組員が5人。100俵積める小型船は船頭さんを含めて乗組員は4人です。

 盛岡藩の船だけで大型船が55艘、小型船が39艘、合計すると400人を超えるヒトたちが船の上で働いていました。さらに、河岸(港)には盛岡藩の川船の役所をはじめ、年貢米を保管する蔵があり、米俵を積み替えるための人夫さんたちがいて、そういうヒトたちが食事をする場所などもあったでしょう。

 しかも、当時の北上市には奥州街道の宿場町もあり、参勤交代や旅人の往来でにぎわっていました。この街道を南に進むためには、北上川最大の支流・和賀川を船で渡る必要があったんですが、大雨などで増水になると何日も足止めとなった旅人たちが滞在するということもあったと思います。

 北上市は、江戸時代の北上川舟運の中継港として栄えると同時に、奥州街道の宿場町としても発展してきた。

 つまり、水陸の両方でにぎわった街だという点に大きな特徴があります。

 そこで働いていたヒトたちはどんな暮らしをしていたのか。周辺の農村部で暮らしていたヒトたちは、どのように河岸や宿場町とかかわり、暮らしを営んでいたのか。他の地域の村や街とはどのような違いがあったのか……。

 残念ながら、明治時代に黒沢尻河岸は大火事に見舞われ、わからない部分も多い。でも、残された古文書や新たに発見された資料などを地道にたどりながら、北上とはどんな街だったのかを明らかにしていくことが私のやるべきことです。

 ここ(北上市立博物館)に来れば、北上市のルーツがわかる。自分たちの拠り所というか、北上市民のアイデンティティが見えてくる。そういう場所にしていきたいんですよね」(渋谷さん)

 今から15年ほど前、この地が港町として栄えていた時代に想いを馳せ、渋谷さんに「だからこそ、新しいものを取り入れる気風がある」と誇らしそうに語ったお年寄りたち。年代から考えれば、その方々も港としてにぎわった時代は知らないでしょう。

 しかし、父や母、おじいさんやおばあさんたちが北上川を眺めながら、かつてのにぎわいを自分の子どもや孫へ、誇らしそうに語ったであろう風景は容易に想像できます。

 そうした記憶を今に、未来につないでいくこと。渋谷さんの地道で息の長い取り組みは、これからも続きます。

北上市立博物館の展示。黒沢尻河岸を行き来していた船に使用されていた道具がずらり。
大きな櫓は大人の身長を優に超えます。北上川舟運のスケールの大きさを体感できます。
館内を案内してくれた渋谷さん。
盛岡藩の御用船であることを示すために船に掲げられた「九曜星旗印(くようぼしはたじるし)」。
1987(昭和62)に復元された大型船(撮影:佐々木享二氏)。艜船(ひらたぶね)と呼ばれ、
1艘に350俵の年貢米を積み、148km先の石巻へ。およそ3日かけて運ばれた年貢米は、
石巻で千石船に積み替えられ、海路で江戸へ。

古文書もほとんどない遺跡群。発掘した“モノ”が教えてくれる北上の歴史。

 北上市立博物館の館長を務める杉本 良(すぎもと りょう)さんは、群馬県出身。地元には古墳がたくさんあり、子どもの頃はその古墳が遊び場で、将来は「考古学者に」と夢見ていた少年は、東京の大学・大学院へと進みますが、もちろん専攻は「考古学」。

 そんな杉本さんが北上市を初めて訪れたのは大学院生のとき。「ちょっとやってみないか」と先生に勧められて遺跡の発掘に訪れたのがきっかけでした

「ちょっとのつもりが、気がつけばもう30年以上になります(笑)」(杉本さん)

 子どもの頃から古墳に夢中だった杉本さんをトリコにしたのが、「江釣子古墳群」や「国見山廃寺跡」(いずれも国史跡)。

 日本の歴史では、古墳は「古墳時代」に造られたものとして教わります。しかし、7世紀後半から8世紀に造られた「江釣子古墳群」は、日本の歴史でいえば主に「奈良時代」のもの。

「江釣子古墳群は、北上市の歴史としてはもちろん、日本の歴史においても重要な遺跡です。

 この古墳群は、蝦夷(えみし)と呼ばれるヒトたちが築いた墓です。発掘調査の成果から見ると、蝦夷の古墳は江釣子古墳群より南にはほとんどなくて、これより北側に、ひろく北海道まで分布していますが、江釣子古墳群の古墳はそのなかでも特殊です。

 一般的な蝦夷の古墳は穴を掘ってそこに亡くなったヒトをおさめるんですが、江釣子古墳群の古墳は石を組んで石室を造ります。しかも、1人しかおさめられません。

 古墳時代に造られた中央の古墳も石室をつくりますが、しかしそちらは追葬(同じ古墳に違うヒトを何度もおさめること)できるようになっています。

 つまり、江釣子古墳群の古墳は、確かに日本文化の影響は受けていますが、中央の古墳とも、蝦夷の一般的な古墳とも違う独自の文化を持っていて、しかも蝦夷の古墳群としては最大規模だという点も面白い。

 当時、奈良時代の後半から平安時代にかけて、蝦夷の人々を日本に組み入れようとする中央と激しい戦いが繰り広げられますが、遺跡の分布から見ても、古墳の規模から見ても蝦夷の抵抗勢力の中心は江釣子古墳群のあたりにいたことは間違いないです。

 それに、古墳におさめられた副葬品も興味深い。装飾品には国内の出土品としても非常に貴重な西アジア製のガラス玉や、ロシア産の錫を原料につくられた腕輪などが出土しています。古墳の横には馬の墓まであって、墓穴から馬具が見つかったりもしています。

 その他、武器や農具なども見つかっていて、このことから江釣子古墳群のあたりは、北と中央の接点にあり、ここで暮らす人々は農業をしながら交易も行い、馬を大切にしながら騎馬の戦いにも優れていたのではないかと考えられます。

 石を組んだ、追葬のできない一代限りの古墳がたくさん造られている点も、ここで暮らす人々が、相当に勢力を誇っていたと考えることができます」(杉本さん)

 日本の歴史は「奈良」から「平安時代」へと移り、蝦夷の国は中央と戦いを繰り広げながら、やがてその支配下に。

 その後、俘囚長(ふしゅうちょう=中央に使えた蝦夷の長)の安倍氏、清原氏、奥州藤原氏へと強力豪族による支配の歴史が続き、時代は移り変わっていきますが、そうした時代に誕生し、やがて北東北最大の山岳寺院として栄えたのが「国見山廃寺」でした。

杉本さんが今一番面白いと注目する「蝦夷の赤い甕」と。奈良時代の終わりから平安時代にかけて、中央と蝦夷は激しい戦いを繰り広げますが、
やがて北上川流域にひろがる北上盆地は中央の支配下に。こちらの赤い甕(正式名称は赤彩球胴甕=せきさいきゅうどうがめ)は
当時、蝦夷の中心的な役割を担っていた人々が使っていた象徴の道具。北上市周辺を中心に分布していますが、
戦いに敗れた後も赤い甕はしばらくこの地に残り、やがて自然となくなっていきます。
このことから蝦夷は戦いに敗れても滅ぼされることなく、この地で生活を営んでいた事実を浮かび上がらせます。
今まで誰も気にもとめなかった赤い甕にスポットを当てたのも、杉本さんの仕事。
一般の博物館はレプリカを展示しているケースが多いそうですが、北上市立博物館では本物をメインに展示している点が魅力。
「国見山廃寺」の展示コーナーでは、写真撮影がNGのため、こちらに掲載はできませんが、
平安時代にこの地に多く見られる鉈彫一木造(なたぼりいちぼくづくり)の貴重な仏像なども展示。
平安時代の人々が眺めた生の仏像をご覧いただけます。
こちらは、北上川東岸の高台に位置する「樺山遺跡」(国史跡)の土器。縄文時代の集落跡とともに、
石を並べたモニュメントが印象的な遺跡です。
「樺山遺跡」の集落跡には竪穴住居を復元。公園として一般開放されています。
「樺山遺跡」の石を並べたモニュメントには謎が……。

シルクロードの終着点。平泉が栄える200年以上も前に花開いた仏教文化。

 中央政権から征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂は、802年に現在の奥州市に胆沢(いさわ)城を築き、蝦夷討伐の拠点として整備を進めていきます。

 やがて、中央の出先機関として国家鎮護の仏教儀式も行われるようになり、たくさんの僧侶たちが参加することに。そうした僧侶たちの修行の場として選ばれたのが、胆沢城から北に9kmほど離れた国見山。この地に小さな本堂があるだけの山寺を建てたのが「国見山廃寺」のはじまりです。

「その後、胆沢城は規模を縮小していき、やがてなくなりますが、俘囚長だった安倍氏がこの地域を支配するようになると、国見山廃寺は多くの堂塔がある北東北最大の山岳寺院として発展していきます。

 当時は、権力者が自分のチカラを誇示するために大きな寺院をつくり、宗教儀式を盛大に行っていました。そうした時代の流れのなかで、国見山廃寺も俘囚長である安倍氏のチカラで大きな寺院として成長していったわけです。

 面白いのが、古代の蓮華(れんげ=ハスの花)の文様が描かれた瓦が見つかったこと。当時はシルクロードを通って中国から仏教が伝わってきたわけですが、蓮華文様の瓦も仏教文化のひとつとして日本に入ってきた。

 その後、中央政権の後押しで官寺仏教として日本にひろがっていくわけですが、それが国見山廃寺に入ってくるのは10世紀の半ば頃だということが、古代蓮華文様の瓦を見るとわかる。

 この瓦は法隆寺にも使われているものですが、当時つくられた瓦としては一番新しいものが国見山廃寺で見つかっていて、その先では見つかっていない。

 つまり、国見山廃寺で見つかった古代蓮華文様の瓦は日本最北東端のものであり、それは当時、日本にひろがった官寺仏教の終着点が国見山廃寺であったということを意味します。

 シルクロードの終着点は『正倉院』と言われますが、実はシルクロードの最北東端であり、終着点は国見山廃寺だったとも言えるんですよね(笑)」

 「これはぜひ展示して、みなさんにも知ってもらいたいと思っています」と杉本さんは楽しそうに言葉を続けます。

展示コーナーの入り口で出迎えてくれる鉄鐘は、北上市更木町大竹廃寺跡から出土した鉄鐘を3Dスキャンして設計データを作成したもの。
平安時代当時の製作方法を参考にしながら、伝統の鋳造技術により製作したものです。
自由に叩いたり触ったりできるため、千年前の響きをどうぞ。
「国見山廃寺」の展示コーナー。歴史的にも貴重な“本物”が展示されており、平安時代の“リアル”を、ぜひその目で。
「国見山廃寺」のミニチュアも。伝承によれば、最盛期には700を超える堂塔が建ち、36の僧坊を持つ大寺院だったそうですが、
平泉が栄える200年以上も前に、平泉よりさらに北の地にこのような大規模な寺院があったことに驚きます。

夢物語で終わらない。さらに深まる北上の歴史の面白さを多くのヒトに。

 「国見山廃寺」はその後、安倍氏から清原氏へと支配者が移り変わり、奥州藤原氏のときに本拠地は平泉へ。

 それに併せて、「国見山廃寺」は衰退。9世紀半ばに僧侶の修行のための小さな堂からはじまり、10世紀から11世紀にかけて、伝承によれば700を超える堂塔が建ち、36の僧坊を持つ大寺院へと大きく発展した「国見山廃寺」は、平泉に中尊寺が完成する12世紀前半にはほとんどなくなり、鬱蒼とした山に姿を変えていきました。

 しかし、かつてこの地に大寺院があったことは伝承の中に息づいており、1963(昭和38)年から発掘調査がスタート。

 それを皮切りに数次にわたる調査の結果、10~11世紀の堂塔跡が数多く発掘され、平安時代中期の北東北最大の寺院跡だったことがわかり、現在につながっています。

 杉本さんは、この発掘調査にも参加。現存する日本最古の懸鏡(けんきょう)のひとつとなる鏡なども発掘しました。

「夢物語だったら、いくらでも語れますが、私たちの仕事は夢を語ることではない。博物館というものは、まず“モノ”があって、それに基づいて『こういうことがわかる』と伝える場所です。

 さすがに館長の立場になってからは、発掘の最前線に出ることはなくなりました。

 でも、今は誰かが見つけた“モノ”からでも自分なりに検討して、今まで誰も振り返りもしなかった“モノ”でもねちっこく調べていくことで、いろんなことが見えてくることがわかって、さらに考古学が面白くなりました」

 そう言って微笑む杉本さん。その作業はかなり地道で、研究成果をあげるのにも時間がかかることが多いそう。

 一方で、杉本さんをトリコにする「江釣子古墳群」や「国見山廃寺跡」、さらに渋谷さんの思い入れも強い「北上川舟運と黒沢尻河岸」などなど、北上市の歴史を特徴づける6つのトピックスは、まだまだわかっていない部分が多いとのこと。

 つまり、それはまだまだ新たな発見があり、そこから導き出される最新の研究成果を反映していくことで、展示内容は今後も進化していくということでもあります。なんだか、ワクワクしてきますね。

 この機会に、北上市のルーツ、アイデンティティとなる歴史と出会う旅に出かけませんか。あなたの知らなかった新たな発見が、きっと北上市立博物館の“モノ”のなかに……。

「ちょっとのつもり」が気づけば30年以上。杉本さんは北上市の遺跡に魅了され、その発掘や研究に長年携わってきました。
いずれは、その集大成として「本も!」と夢はひろがります。
北上市立博物館のマスコットキャラクター。左の「竜主(りゅうず)さま」は、国見山のふもとにある極楽寺に伝わる
国指定重要文化財「銅竜頭(どうりゅうとう)」の化身。
右の「小竜主(こりゅうず)くん」は竜主さまのもとで修行中ですが、失敗ばかり……。そこには、小竜主くんとともに
北上のいろんなことを学び、成長する博物館でありたいという想いが込められています。

◇今後の展示スケジュール

【企画展】世界のカブト&クワガタ展

期間:2019年9月1日(日)まで

会場:和賀分館

子どもはもちろん大人も大興奮! 日本はもちろん、世界各地のカブトムシやクワガタムシなどの標本を展示します。

【企画展】昔の道具とくらし展

期間:2019年9月30日(月)まで

会場:北上市立博物館 本館

昨年も大好評! 小学校の社会科の単元「昔の道具とくらし」の学習にも役立つ道具などを展示。明治~昭和の日用品や北上市の懐かしい写真も見どころ。親子三世代で楽しめる企画展です。

【特別展】北上川舟運と海 -つなぐ、広がる、時代を超えて-

期間:2019年9月21日(土)~12月8日(日)

会場:北上市立博物館 本館

江戸時代から明治時代半ばにかけて盛んに行われた北上川舟運は、北上市及び流域の発展や文化と深く結びついています。本展では、流域間でのヒトとヒトとのつながりや、北上川から海を経て全国各地に広がっていくモノの動きなどに注目して、北上川舟運の歴史を紹介します。

●関連イベント●

【体験学習】ゲームで体感! 北上川舟運

すごろく形式のゲームを通じ、舟運を楽しく疑似体験します。

開催日時:2019年9月22日(日)10:00~ 

会場:北上市立博物館 本館

【講演】

兼平賢治氏(東海大学文学部准教授/北上市史近世部会長)を講師に迎え、盛岡藩を中心とした北上川や海に関わる歴史の講演会を予定しています。

開催日時:2019年10月13日(日)13:30~

会場:北上市立博物館 本館多目的室

※その他、探訪会やフォーラムも実施。すべて事前申し込みが必要です。詳細はこちら!

(了)

北上市立博物館  本館      

岩手県北上市立花14-59

Tel/0197-64-1756

開館時間/9:00~17:00(最終入館16:30)

観覧料/一般500円、高校生240円、小中学生170円

    ・未就学児は無料。

    ・身体障害者手帳、療育手帳、精神保健福祉手帳をご持参の方とそのご同伴者1名さまは無料。

    ・北上市消防団員カードのご提示で5名さま無料。

    ・北上市、奥州市、金ケ崎町、西和賀町の小中学生は無料。

    ・その他、団体料金の設定や共通観覧券の取り扱いあり。

休館日/●4月~11月:無休(施設点検・資料点検のため休館する場合あり)

    ●12月~3月:月曜日(祝日の場合は翌日)、国民の祝日の翌日(土・日曜日および前項の休日の場合は、その翌日)、年末年始(12/28~1/4)

和賀分館

岩手県北上市和賀町横川目11-160 (北上市役所和賀庁舎1階)

Tel/0197-64-1756

開館時間/10:00~16:00(最終入館15:30)

観覧料/無料

休館日/●4月~11月:無休

    ●12月~3月:月曜日(祝日の場合は翌日)、国民の祝日の翌日(土・日曜日および前項の休日の場合は翌日)、年末年始(12/28~1/4)

2019-08-01|
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