曹洞宗 花岩山 永昌寺(そうとうしゅう かがんざん えいしょうじ)
第25世 住職 海野義範(うんの ぎはん)
みんなが気軽に集まれるお寺に……。音楽フェスにかける想い。
7月20日(土)、北上市更木(さらき)にある「永昌寺」(えいしょうじ)の境内には、子どもからお年寄りまで、地域のヒトたちがたくさん詰めかけていました。お目当ては、同寺で年4回開催される「寺子屋」なるイベント。
この日は、「座禅&ミュージックふぇすてぃばる」と題して、午後1時から本堂内で座禅会、午後2時からは境内で音楽ライブが開催されました。
どなたでも無料で参加できる座禅会は、海野義範(うんの ぎはん)住職の仏教に関する楽しい講和付き。
さらに、音楽ライブにはバンド演奏やギターの弾き語りはもちろん、シャンソン、三味線、民族音楽、御詠歌、雅楽に加え、フラダンスのダンサーも登場するなどバラエティ豊か。国境・ジャンルを超えて、地元や近隣の音楽好きが27組も集まり、会場を盛りあげました。
さらに、ステージの横にはかき氷に金魚すくい、輪投げにおみくじコーナーなどもあり、子どもからお年寄りまで楽しめるように配慮。どのお店も地元の方や檀家さんたちの手づくりですが、多くの子どもたちでにぎわっていました。
今年、開山(かいさん)400年を迎える「永昌寺」の25代目の住職を務める海野住職が、この「寺子屋」というイベントをはじめたのは8年前。1年3カ月にわたる厳しい修行の日々を乗り越えて「永昌寺」に戻り、副住職として2年の月日が流れた頃でした。
「お寺というと、お葬式やご法事で集まる場所というイメージが強いですよね。それを変えたかった。地域のみなさんがいつでも気軽に集まれるお寺にしたい。それは、私が修行していたときからずっと考えていたことでした。
その話をしたら5人の檀家さんも協力してくれて、『寺子屋』というイベントがスタートしたんです。最初は年1回の開催で、座禅の体験会とピアノの発表会というシンプルなものでした。
お寺に集まったのも10人ぐらい。それでもずっと続けていたら、4年前から年4回の開催になり、参加者も100人から多いときは150人も集まるようになった。
今では檀家さんをはじめ、イベントに参加する出演者、子どもが出演するからと付き添いで来てくださったお父さんやお母さんも出店を手伝ってくださったりしてイベントを支えてくださいます。
『寺子屋』がこうして8年も続いているのも、そういうみなさんのお陰です」(海野住職)
ここまでを読むと、地域に愛されるお寺の住職として順調に人生を歩んでいるように見えますが、その道のりは決して平たんではありませんでした。
お寺の生活とは無縁の日々。好きなスポーツで人生を切り拓く。
海野住職が育ったのは、実は「永昌寺」のある更木ではありません。海野住職のお父さんは、盛岡市にあるお寺の末っ子として生まれ、ご縁があって「永昌寺」の住職となったのが、およそ50年前。
その頃には盛岡で結婚しており、奥様も高校の体育教師。さらに、すでにお子さんもいて生活の基盤は盛岡にあったため、海野住職のお父さんは単身赴任で「永昌寺」にやってきたのでした。
そのため、海野住職は高校を卒業するまで盛岡で生活しており、お寺の生活とはほぼ無縁。さらにお父さんも、息子にお寺の仕事を無理に継がせようとすることはなく、「好きなことをやれ」というスタンスだったため、海野住職は自分の好きな道を突き進みます。
海野住職は、子どもの頃から運動神経が抜群。高校時代はハンドボール部でインターハイに出場。岩手県選抜の主将まで務めますが、映画「私をスキーに連れてって」を観てスキーに開眼。
東京の日本体育大学に進むと、当時の学生スキーサークル界の名門「基礎スキー研究会」に入部。そこでメキメキ腕をあげ、大学4年のときには全国学生岩岳スキー大会で個人総合優勝の快挙。
大学卒業後はスキーウェアブランドの指定選手となり、スキーの道をさらに極めようとしますが、バブル崩壊で指定選手の認定が解除に。会社も辞めざるを得なくなり、どうしようかと悩んでいるときに海野住職に声をかけてくれたのが、東京にある旅行会社でした。
27歳で旅行会社とプロ契約。ひとりで立ち上げた新部署も順調に。
「『えっ、なんで旅行会社?』 と最初はビックリしました(笑) でも、話を聞いて納得しました。
その会社では一般スキーヤーのツアーの企画はもちろん、学校のスキー部やスキーサークルなどに合宿先を斡旋するなど、スキーヤーとスキー場をつなぐ環境づくりを強化するために、新たな部署を立ち上げようとしていたんです。
私はスキー競技者として大会や練習などで全国のスキー場を利用しているので、ひとつひとつのスキー場の特徴を一般のヒトよりも詳しく知っているし、パイプもある。
ですからツアーの特徴や合宿の目的に合わせて、例えば初心者が多いのか、上級者向けか、どんなスキーを楽しみたいのか、どんな合宿をしたいのか、今度の合宿ではどういう部分を強化したいのか……。そういう細やかなニーズに合わせてスキー場の提案ができる。
そういうお手伝いなら私にもできると思って、その会社にお世話になることにしました」(海野住職)
しかも、なんとその会社とはプロ契約を結ぶことに! 海野住職は28歳でプロスキーヤーになると、冬は大会に参加するため各地を転戦。
それ以外は旅行会社の新しい部署で、スキーヤーとスキー場をつなぐ仕事をはじめますが、その部署も当初は海野住職ひとりだったそう。しかし……。
「単にスキー場の手配をするだけではなく、スキー部の合宿ならミーティング用の部屋があるとうれしいと言われれば、スキー場とそういう交渉もします。
それに、スキー競技のレベルはどんどんあがっているので、こういう機材や設備を導入すれば今後10年はお客さんを呼べるし、スキー部の合宿先としてもニーズがありますよ、というような提案も積極的にしていました」(海野住職)
スキーヤーの満足はもちろん、スキー場にもメリットのある提案を心掛け、スキー業界全体を盛りあげていこうと配慮する海野住職の取り組みにより、新部署も事業領域を少しずつひろげ、人員も増加。
さらに33歳で結婚。全日本スキー技術選手権に17回も出場。インラインスケートを活用したスキーのトレーニング方法も生み出しガイドブックも多数出版するなど、公私ともに順風満帆だった矢先に、晴天の霹靂の出来事が……。東京にある会社に突然、海野住職のお父さんが現れたのです。
37歳で再出発。ヒトのために生きること。お坊さんだからこそ、できること。
「父が会社に突然来たと思ったら、『後を継いでくれ』と言われて、もうびっくりですよ。それまで一度もそんなこと言ったことがなかったし、むしろ『自分の好きなことをやれ』という感じだった。ですから、最初はきっぱり断りました。
だって、そのとき私は35歳ですよ。東京で結婚して、スキーも仕事も順調で、さあこれからというときですから。それを捨てて35歳で頭をまるめてお坊さんの道をゼロから歩め、と突然言われてもね(笑)」(海野住職)
しかし、海野住職のお父さんは、それで諦めることなく再び東京にある会社を訪れ、海野住職を説得しようとします。
「檀家さんから『このお寺は息子さんに継がせてほしい』と言われたそうなんです。やっぱり、お寺は檀家さんのものですからね。
お寺を建てるときの浄財も檀家さんからの寄付ですし、住職はお寺の管理人ですから、檀家さんに言われると父も断れなかったんでしょう。
『40歳になってからでは絶対無理だから。35歳ならまだ間に合うから』って言うんですけどね……」(海野住職)
そのときもお父さんの説得に首を縦に振ることはなかった海野住職は、東京に住んでいるお姉さんに相談をします。しかし、そこで運命のひと言が……。
「『そろそろヒトのために生きた方がいいんじゃない』と言われたんです。
『いやいや、俺もお客さまのためとか、スキー場のためとか、いろいろヒトのためにやっているよ』と反論したんですけど、『それも、あんたがしたいスキーのためじゃん』と言われて言い返せなかった(笑)
でも、さすがに私をプロにしてくれた社長は私を止めてくれるだろうと思って、社長に相談したんですよ。そしたら、『それもいいですね』って。
『えっ、止めないんですか?』と聞いたら、私がお寺の長男だというのは最初から知っていたので、『いつかこういう日がくると思っていた』と言うんです。
でも、一番の理由は、社長が前の年にお父さんを亡くしていたから。
そのとき、お坊さんに丁寧にお葬式をあげてもらって、生きていくこと・死んでいくことの意味のお話をしてもらって、心を落ち着かせることができたそうなんです。『お坊さんというのは、とても大事な役割なんだとそのとき気づいた』と言っていました」(海野住職)
お姉さんと社長の言葉が胸に沁み、海野住職は決断します。しかし、その頃には海野住職がひとりでスタートした新部署の事業領域もさらに拡大しており、仕事の引き継ぎの時間も考慮。
仕事を辞めるのはそれから2年後の37歳のときで、同時にプロスキーヤーとしても引退を決意します。今から13年前のことでした。
修行前の半年間。「永昌寺」で過ごしたなかで生まれた覚悟。
会社を辞め、プロスキーヤーも引退した海野住職は北上市更木にある「永昌寺」に奥様とともに帰郷。それから修行に出るまでのおよそ半年間、お父さんの下でお寺の仕事を手伝うことに。
1619年に開山した「永昌寺」は、厳しい座禅の修行で知られる曹洞宗のお寺。そのお寺を継ぐために、曹洞宗の大本山にて早くて1年、長くて3年にわたる厳しい修行が課せられます。
海野住職は、高校を卒業するまで盛岡市で育ち、大学以降も生活の基盤はずっと東京にありました。従って、「永昌寺」で過ごす時間は、お盆や正月のみ。大学でスキーをはじめてからはさらに多忙となり、お盆や正月に帰省しても1泊してとんぼ返りすることが多かったといいます。
そのため、お寺の仕事に関わったことがほとんどなかった海野住職は、修行に行く前のこの半年間で初めてお坊さんの仕事の厳しさを目の当たりにしたのでした。
「最初は半信半疑で、いやいやスキーを辞めて、言われた通りに修行して、そのままなんとなくお坊さんになるのかなと思っていました。でも……」(海野住職)
「永昌寺」の一日は、朝のお勤めからはじまります。今は椅子に座って行いますが、13年前は座布団の上に正座し、お経を読んで亡き人々を供養し、更木地区で暮らす人々の今日一日の安寧を祈願していました。
その時間は、およそ50分。そんなに長い時間、正座をすることなど、ふつうの暮らしでは考えられません。海野住職も終わったときには、立つことさえできませんでした。
さらに、その半年間でお父さんの後についてお坊さんとして葬式や法事も初体験。そこで初めて目にしたお父さんの姿に、海野住職は地域の人々の生と死を見つめ続けるお寺の“お坊さん”という役割の凄みと責任の重みを痛感することに。
「お葬式をあげるのは地元の方ですから、だいたいみなさんのことを知っています。でも、父はそういう方のお葬式でも涙どころか、眉ひとつ動かさず、100人を超える参列者の中心にドンといて、お坊さんとしての勤めを果たし、しっかりと亡くなった方に引導を渡さないといけない。
これが、私がなろうとしている“お坊さん”なのかと思ったら、生半可な気持ちでは到底できることじゃないと思ったんです」(海野住職)
実は海野住職のお父さんは、海野住職が子どもの頃からお寺の本堂に入ることを許さなかったといいます。そういう厳しい仕事だからこそ、我が子には継がせたくないという気持ちがあったのかもしれません。
それはさておき、このとき海野住職には生まれたばかりの女の子の赤ちゃんがいました。海野住職にとってその子は初めての子どもであり、かわいい盛り。しかし、それで修行を延期することもできません。
新しい命が加わった自分の大切な家族と離れる以上は、そしてお父さんのように地域の人々の生と死をどっしりと受け止め、悲しみにくれるご遺族にしっかりと寄り添えるお坊さんになるために、「どんな厳しい修業も絶対に乗り越える」と覚悟を決め、38歳のときに神奈川県横浜市にある「総持寺(そうじじ)」の門を叩きます。
この寺は、福井県にある「永平寺」と並ぶ曹洞宗の大本山。国際的な禅の根本道場として知られ、海野住職はこの地で以後1年3カ月にわたる厳しい修業の日々を過ごします。
地域のなかで暮らすお坊さんの役割とは? 父の姿に重なる答え。
70人ほどいた修行僧のほとんどは、20代。いずれも日本全国にある曹洞宗のお寺の嫡男で、仏教系の大学を卒業後、「大本山 総持寺」の門を叩いたヒトたちです。そんな若者たちに交じって、修行に励む38歳の男性が海野住職。
一日の修行のはじまりは、夜も明けきらないうちから。2時間の坐禅にはじまり、お勤め、続いて2kmにわたる回廊を雑巾がけする掃除を終えて、初めて食事。その後にお勤めをして、掃除、坐禅、夕食、お風呂、最後に2時間の坐禅をして就寝。その繰り返し。
「他のみんなは生活の一部にお寺がある暮らしをしているし、大学でさらに仏教のことを学んでいるし、何より若いのでお経を覚えるのはもちろん、新しいことを覚えるのも早い。
私はお寺の暮らしとはほぼ無縁な暮らしをしていたので、法衣の着方もわからない。大学も体育系なので仏教のことは何も知らない。
坐禅も最初は足を組めなかったし、おまけに38歳ですから脳みそのメモリもパンパンで、新しいことを覚えるのにも時間がかかる(笑) ですから、お経を全部覚えることができたのもみんなより遅くて、9カ月もかかりました。
修行は確かに厳しかった。朝早くからひたすら坐禅、お勤め、掃除の毎日。家族とも連絡がとれないのは寂しかったですが、それでも、楽しいことも多かった。
同期はみんな私よりひと回り以上も若かったですが、ずっとスポーツをやっていた私は体力に自信があるので、そういう作業は私が率先してやるとか、それぞれが持っている得意分野が別だったので、それをうまく組み合わせて、年齢なんて関係なく、みんなで協力して厳しい修業を乗り切ろうという雰囲気があった。貴重な経験でした」(海野住職)
海野住職にとって忘れられないのが、ようやく坐禅で足が組めるようになった頃に、修行の指導役の和尚さんが言った言葉。
「『私たちは何のために修行をしているのか? それはヒトのためであって、自分のためではない。あなたたちがお寺に戻ったら檀家さんがいて、その檀家さんのために修行をしているんです。
例えば、檀家さんの悩みを聞いているときに、足が痛いからと言って話の腰を折って正座をやめられますか。
ご葬儀では、悲しみにくれるご遺族の前で引導をわたし、亡くなった方を仏国土に送り出さなければならない。そのとき、ご遺族と一緒に涙を流していたら、誰が引導を渡すのですか。
あなたたちには、亡くなった方をご遺族に代わって天の国に送り出すという大切な役割がある。だからこそ、お葬式でみんなが泣いているときも、あなたたちはひとり凛としていなければならない。2時間正座していても涼しい顔をしていなければならない。
1年、2年、3年の修行は確かに厳しい。家族に会えない辛さもある。でも、この修行のなかで苦しむだけ苦しんで、悲しむだけ悲しんで、それを持ってあなたたちはお寺に戻るんです。
足をしっかり組んで坐禅する姿、お経を唱える姿、すべてを檀家さんたちは見ています。そのとき、あなたがどんなお坊さんでいられるか、檀家さんにとってあなたがどんな存在に映るのか、すべてはこの修行で決まるんですよ』 その言葉を聞いて、より一層、修行に励むようになりました」(海野住職)
さらに、その言葉を聞いて海野住職は、修行前に半年間過ごした「永昌寺」で出会った檀家さんのことを思い出します。
「みなさん、私を見ると『あんた、誰?』と聞くんですよ。そりゃ、そうですよね。ずっとお寺とは関わっていなかったんですから(笑)
でも『息子です。今、お寺を継ぐように努力しています』というと、『よかった、よかった』とみなさん安心なさるんです。
そのときは『なんで安心するんだろう』と不思議に思っていたんですが、修行中にご指導いただいた和尚さんの言葉で、その意味がわかった気がしました」(海野住職)
地域の人々の生きること・死ぬことを見つめ続け、しっかりと受け止めるお寺のお坊さんの大切な役割に、改めて気づいた海野住職。
もちろん、その脳裏には修行に行く前の半年間をともに過ごし、葬式や法事に臨むお父さんの、眉ひとつ動かさずひとり凛としていた姿も思い浮かんでいたことでしょう。
お前は何がしたい? 「永昌寺」に戻って最初に問われた言葉に背中を押されて。
海野住職が檀家さんたちの飲み会に誘われたのは、1年3カ月の修行を終えて「永昌寺」に戻ってきてすぐの頃。
「『まず、来い』と言われて、怒られるんじゃないかと思ってドキドキしながら行ったんですよ。そしたら『お前は何がしたい?』といきなり言われて、『えっ?』と(笑)
『何がしたいって何のことですか?』と聞いたら、『いいから、お前が何をしたいか言ってみろ』と、もうその一点張りです」(海野住職)
そこで、海野住職が答えたのが……
「除夜の鐘を鳴らすときに、みなさんにお寺に来てもらえるようにしたい」
海野住職は盛岡市に住んでいたため、お寺との関わりはほぼないという話は最初にしました。しかし、1点、12月31日にお寺で鳴らす除夜の鐘だけは、小学生の頃から海野住職が行っていました。
大学時代、スキー競技が多忙となり、除夜の鐘をつけない時期が何年かありましたが、社会人になってからは復活。どんなに忙しくても、12月31日には欠かさず帰郷し、「永昌寺」の境内で毎年108つの鐘を鳴らしていました。
「父もさすがに年を取ったので、除夜の鐘ぐらいは私がつかないと、と思ってずっと続けていたんですよ。
そのとき寂しかったのが、除夜の鐘を聞きにきてくださる方がふもとの家の方、4人ぐらいだったこと。よくテレビを見ていると、除夜の鐘を聞きにたくさんの方がお寺の境内に集まっているじゃないですか。
『うちのお寺にも、もっと地域のヒトたちがたくさん来てくれたらいいのに』とずっと思っていたんです」(海野住職)
それを思い出して海野住職は檀家さんの「お前は何がしたい」という問いに、「除夜の鐘を鳴らすときに、みなさんにお寺に来てもらえるようにしたい」と答えたのでした。
海野住職の言葉を聞いて、「除夜の鐘を鳴らすとき、お寺に行ってよかったの?」と、そのことにまず檀家さんたちが驚いたそうですが、それはさておき、さっそく檀家さんたちは動き出します。
海野住職がつくったチラシを「じゃあ、俺が一軒一軒まいてやる」といって配りに出るヒトたちがいて、周知も完了。
当日はお寺の境内にテントを張り、あったかい甘酒やコーヒーにお神酒も用意。その準備も檀家さんたちの手で行われ、除夜の鐘を聞きに来たヒトたちにみんなで振舞いました。
「みなさんのお陰で、いつもなら4人ぐらいのところ、30人ぐらいのヒトたちに足を運んでいただきました。それから10年ほど経ちますが、現在では除夜の鐘を聞きに100人ほどが集まってくれるまでになりました。
当日、お寺に来てくださった方には、御守りを差し上げているんですが、余裕を持って準備していたつもりでも全部なくなってしまうほどです。
8年前、『寺子屋』というイベントをはじめようと思ったのも、この経験があったからこそだと今は思えます。やっぱり、お寺にみんなが集まってくれるのはうれしいですよね」
そう言って海野住職は笑みを浮かべます。
供養することの意味とは? 地域の人々を思い、修行する日々はこれからも。
1年3カ月の修行を終えて、「大本山 総持寺」を去ることが許されたとき、指導役の和尚さんから言われた言葉を海野住職は今も大切にしています。
「『総持寺での修行はこれで終わりますが、これからが本当の修行です。今までは、大本山という空間に守られて修行に専念できた。失敗しても『修行の身ですから』と言って許されることもあったでしょう。
でも、これからは違います。お寺に戻れば、今日は坐禅なんかしたくない、朝のお勤めも面倒くさいからしないと怠けることもできる。
でも、その結果は自分に返ってくる。いつか住職となったとき、すべての責任をあなた自身が背負うことになる。言い訳はもうできません。
ですから、ここを離れて自由になったとき、本当の修行がはじまるんですよ』と言われました。その言葉は、今も忘れていません」(海野住職)
現在、海野住職がチカラを入れているのが、「みんなが気軽に集まれるお寺にすること」と同時に、「供養することの意味をきちんと説明できる」お坊さんになること。
「修行から戻ってきて、例えばご法事があったときに父がお経を唱えるんですよ。すると、それが終わってから檀家さんから聞かれることがあるんです。『今日、唱えていたお経のあの言葉、どういう意味があるんですか』って。
たぶん、父に聞きたいんだけど、父は住職としてドンと座っているので聞きづらい(笑) そこで当時は副住職だった若い私に聞いたと思うんですけど、私はそれに答えられなかった。
お経を唱えることはできるんですけど、その意味がわからなかった。せっかく修行をしても、『これじゃ、だめだろう』とそのとき思いました」
それから海野住職は、曹洞宗の本部にある「布教師養成所」を受講。年3回、1回につき1週間、大部屋に泊まり込みで曹洞宗の教えをイチからみっちり学びました。
「昨年まで8年間ずっと通っていました。お経の意味はもちろん、なぜお坊さんが真ん中でお経を唱えないといけないのか、なぜこのタイミングで鐘を鳴らすのか、鳴っている鐘にも意味があるし、一周忌、三回忌にも意味がある。
最近は、家族葬とか直葬(火葬のみの葬儀)とか、遺言で葬儀はしないという方もいらっしゃいます。でも、葬儀にこめられたひとつひとつの意味がわかってくると、なぜ一周忌があり、三回忌があるのか、そこにこめられた意味がわかってくると、考え方も変わってくると思うんです。
私は、そのひとつひとつの意味をみなさんに説明できるお坊さんでありたい。そして、みなさんには納得して、心から亡き人の供養をしていただきたい。そう思っています」(海野住職)
海野住職のお父さんが、更木の「永昌寺」にやってきたのは今からおよそ50年前。その頃は、ヒトも寄りつかないあばら家だったそう。
それからお父さんは地域の檀家さんたちとともに協力してお寺を立て直し、現在までの400年の歴史をつなぐ「永昌寺」を守ってきました。
そんなお父さんからバトンを受けた海野住職は、現在も「みんなが気軽に集まれるお寺にすること」「供養することの意味をきちんと説明できるお坊さんになること」を目標に、地域の人々の今日一日の安寧を祈願する朝のお勤めと坐禅から一日をはじめる日々を、愚直に繰り返しています。
「道は無窮(むぐう)なり。悟りてもなお行道すべし」とは曹洞宗の開祖「道元禅師」の教え。
それは、「仏道に終わりはない。悟ってもなお、修行である」という意味です。
もうすぐ、お盆。海野住職はこの期間、地域の檀家さんの家100軒をめぐり、お経を唱えます。
「ゆっくりお話する時間がないのは残念ですが、それでもお茶を一杯だけいただきながら、檀家さんと顔を合わせて少しでも言葉を交わせる時間がうれしいです」
そう言って微笑む海野住職でした。
(了)
岩手県北上市更木33-105
Tel/0197-66-4240
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